2019年9月6日金曜日

自然と低徊、もしくは余裕




夏目漱石に憧れる。

ひと昔前、漱石にかぶれた折にはいちいち
「これは僕のために書かれたんじゃないか?」
と膝を打ちながら読んだものだ。

さて、一部では漱石のことを余裕派と呼ぶ。

当時の自然主義の流行もあるのだろう。

赤裸々な私小説を美徳とする自然主義の作家たちからしたら、
漱石の鷹揚とした姿勢が少し妬ましく、
またよっぽど余裕こいているように見えたのかもしれない。

漱石自身は自分の主義を低徊趣味と呼んでいる。

経済はともかく、実際に漱石に精神的な余裕があったかと言えば
そんなことはない筈だ。

何故なら少なくとも彼は、
神経を弱らせたり、
大量の吐血をするほど胃潰瘍に苦しんだりしているのだから。

「余裕」はあくまで作風であろう。



さて、
自分を漱石になぞらえるつもりはないが、
僕もたまに人さまから余裕があるように見られる。
たしかに低徊趣味めいた部分はあるだろう。

けれども実際のところは全くもって余裕がない。
窮迫もよいところである。


では、何がどれだけ苦しいか。

赤裸々な告白は自然主義の方に譲るとして、
僕はこのまま火にまみれながら
ポーズだけでも余裕派を演じていよう。
















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