僕が座右の書と頼む一冊に
『牛肉と馬鈴薯』という短編小説があります。
作者は国木田独歩です。
馬鈴薯とは、じゃが芋のことですが、
別に料理の話ではありません。
牛肉派か、それとも馬鈴薯派か、
という意味合いのタイトルです。
いえ、食の嗜好の話でもありません。
問われているのは
生き方そのものについてです。
理想と現実に臨む態度それぞれが、
ここでは牛肉と馬鈴薯に例えられているのです。
もし毎日、おいしい牛肉を食べたいのなら、
理想は捨てて、現実的に稼いで暮らさねばならない。
夢や理想に生きようとするならば、
贅沢は諦めて毎日、馬鈴薯を食べて暮らすことになる。
ところで「諸君は牛肉と馬鈴薯とどっちが可い?」
それを受け、僕は牛肉党だ、
いや僕は馬鈴薯党だという具合に紳士たちが語らいます。
しかし、牛肉か馬鈴薯かという話題は、
遅れてきた男 岡本の登場により、あらぬ方へと向かうのです。
なぜなら岡本が求めるのは牛肉でもなく、
また馬鈴薯でもないと言うのですから。
「喫驚しちゃアいけませんぞ。」
慎重に前置きしたうえで
岡本は自分の望みを静かに告白します。
「喫驚したいというのが僕の願なんです」
なんと言うことでしょう。
彼が痛切に望むのは、ただ喫驚(びっくり)したいということなのです。
「何だ!馬鹿々々しい!」
もし僕がその場に居合わせたとしても、やはり同じ感想を持ったかもしれません。
しかし呆気に取られる周囲をよそに岡本は更に訴えます。
「宇宙の不思議を知りたいという願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願です!」
「死の秘密を知りたいという願ではない、死ちょう事実に驚きたいという願です!」
世の中は説明のつかない不思議なことだらけ、
しかしそれらにいちいち驚嘆していたなら大変です。
日頃、私たちは心身の均衡を保つため、
感動を鈍化させながら生きているのかもしれません。
空が青い!!
星がキレイだ!!と毎度 喫驚していたら身が持ちませんからね。
そういった驚くべきこと全てを当然のこととして受け入れて
日々をぼんやり生きていく、それを「習慣」と呼ぶのでしょう。
岡本の願いはそんな「古び果てた習慣の圧力から脱れて、
驚異の念を以ってこの宇宙に俯仰介立」することだと言います。
たしかに「習慣」は僕たちの目を曇らせ、
なぜ空が青いのか、そう問うことさえ忘れさせてしまいます。
では「習慣」のフィルターがかからない、無垢なる眼と心で世界を臨めたなら、
いったいどれほどの感応が待ち受けているのでしょうか。
それを知ってみたいとは思いつつ、
しかしその願望は、少し破滅的にも思えます。
僕にはまるで岡本が、
真理を求めながら人生の絶頂で「時間よ止まれ!」と叫んで昇天していく
ファウスト博士のように思えるのです。
きっと剥き出しの驚愕に出会ったならその衝撃で
魂は千々に吹き飛んでしまうことでしょう。
まさしく、「たまげる」を漢字で「魂消る」と書くように。
岡本のこの願望は、やはり望むべくもない望みなのかもしれません。
現に岡本すらもが、ひととおり気炎を上げたあと、急に意気消沈してしまい、
最後は冗談に紛らわせて自分の願いを誤魔化してしまいます。
「何だ!馬鹿々々しい!」
この言葉が全てを物語っていたのかもしれません。
しかしそれでもなお、『牛肉と馬鈴薯』は僕にとって非常に惹きつけられる作品です。
何故なら、僕が常に牛肉と馬鈴薯 ー
つまり現実と理想のあいだを揺れ動く人間だからであり、
また同時に、いつも心のどこかで喫驚することを望んでいる者なのですから。
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