2018年5月17日木曜日

La vie en rose






横浜 港の見える丘公園まで
バラ苑を見に行って参りました。

色とりどりのバラが盛りを迎えています。
とても綺麗。

途中、友達の勤めるパン屋に立ち寄り
本日のピクニックのお供を調達。公園のベンチで頂きました。

良い休日。

“La vie en rose”

“バラ色の人生”とはエディット・ピアフの歌ですが、
歌詞の内容としては、“バラ色の日々”といったところかしら。







彼(女)はローズ・セラヴィ。
芸術家マルセル・デュシャンの変名のひとつ。
名前の由来は「バラ、それこそ人生」の駄洒落から。

ちなみに美輪明宏のラジオ番組は“薔薇色の日曜日”


まぁ、このように人の暮らしや人生をバラに例えることもよくありますが、
バラと言っても多種多様。

さまざまな系統、たくさんの品種があり、
なんでも全部で2万種類以上もあるのだとか。

バラも色々、人生も色々。人それぞれ。

皆がめいめい自分らしいバラ色の暮らしを営めればいいなと、
そんな優しい思いを抱くのは、
バラの薫りで陶酔きたした、本日限りのことでしょうか。

気持ちも、ズボンも、ほんのりバラ色に染まった、
港町の初夏でした。








墓へ参らむ




近ごろ、墓参りが好きである。

祖父を偲んでとか、
先祖供養…というだけでなく、

純粋に気持ちがいいからだ。


新馬場は、品川駅から各駅停車で二駅。

都心に近い割にはどこか長閑な、
古い宿場町の趣きを残す町だ。

また寺町でもあり、やたらと寺が多い。
うちの菩提寺もそのうちの一つとなる。

活気ある商店街。
その一角には易者さんが座っていたり、
町の名物おじさんなのだろうか、
なんと、寅さんの格好をした男性が歩いていたり…

義理人情の時代にトリップしたような
そんな感覚を覚えてしまう。

また整然とした歴史ある菩提寺も心地がいい。
境内には季節の花が揺れる。
特に僕が好きなのは百日紅の花咲く頃だ。

その一画だけ建物が低いせいだろう、
寺では空が広く感じられるから面白い。

簡単に墓を清め、線香を灯し手を合わせる。
これも猥雑な毎日のうちに設らえられる、
ちょっとした瞑想になる。



近ごろ墓参りが気持ちいい。

東京に用がある時は
時間の許す限り、立ち寄りたいと思う。

供養もできて、寄り道できて、散歩もできる。
なんとも愉しい気分転換だ。



2018年5月14日月曜日

新メニュー カヴァカヴァ・ソーダ




新メニューの紹介です。

新しいソーダ飲料が出来ました。

名前は カヴァカヴァ・ソーダ と言います。

カヴァと、生姜と、時計草をベースに作りました。


カヴァとは、ポリネシアなどに自生する植物で、
その根の成分を飲用します。

高い鎮静効果があり、また抗不安、催眠作用もあります。

飲むと少しふわっとします。舌が痺れることがあります。

南の島では宗教的儀礼にも用いられてきました。

僕はハワイ島で初めてカヴァを飲んで気に入りました。
ハワイでも先ずはちょっとしたおまじないをしてから頂きます。

とは言えカヴァ自体はそんなに美味しいものではありません。
香りは良いのですが、泥っぽい味が強いのです。

そこで飲みやすいジンジャーエール風に調合いたしました。

生姜と、これまた鎮静作用の高い時計草(パッションフラワー)の葉と、
https://himadacoffee.blogspot.jp/2018/04/blog-post_23.html
いくぶんのスパイスなどでの処方です。





あまり強烈にはしておりませんが、お勧めはいたしません。
それなりに効きます。
あくまで自己責任でご飲用ください。

お勧めしない新メニュー。

その名もカヴァカヴァ・ソーダ。

こいつは刺戟的です。






2018年5月13日日曜日

一口残しとコーヒーブルース




最後の一口…いや、半口くらい、
カップにコーヒーを残されていく方が多いのがいつも気になります。

不愉快というわけではありません。

何故なら、かくいう僕もやはり自宅でコーヒーを飲む時などは
不思議と一口ばかりよく残してしまうからです。

どういう神経の働きなのか…
我ながら不可思議ではあるのですが
やはりそうなってしまうのです。

ミュージシャン高田渡は『コーヒーブルース』の中で
“そう、最後の一滴が勝負さ”と唄います。


これはコーヒー屋の店員さんへ語りかけている歌なのかと
思っていたのですが、もしかしたら違うかもしれません。

何故ならば、ドリップする際の最後の一滴は雑味だらけで、
そこまで落とす店員さんはまずいないからです。

(ましてや舞台は老舗のイノダコーヒ三条支店ですし…)

だとしたら、この歌は、高田渡が
やはり最後に少しコーヒーを残してしまう自分自身をいぶかしんで
唄ったものかも…と推し量るのは、それはうがち過ぎというやつでしょうか。

関東人は一口残すと言いますが、それは関係ないでしょう。
また少し残すのが礼儀とされる儒教の影響もないように思えます。
ましてや飲み残しで吉兆を観ずるトルコのコーヒー占いでもありません。

はてさて、このカップの底のほんの少しの飲み残し。
謎は深まるばかり。

どなたかこの心理を解ける方、
いらっしゃいましたらどうか僕にお教えくださいね。





2018年5月3日木曜日

こころ

アンリ・マティス 『情熱の恋心』



こころ の語源は くくる だと言う。

紙をくくる。紐をくくる。薪をくくる。

くくるとはバラけそうな何かを束ねて纏めることだ。

心は複雑。
気持ちや感情は猫の目のよう、
てんでばらばら、いつも矛盾、

この支離滅裂な精神がひとつ所に
ぐっと纏められているからこそ、心が、くくる であるのだろう。

琉球ことばで心を表す “くくる” が
語源の姿をそのまま残しているようだ。


"ただおのが住む世を、かく観じ得て、
霊台方寸のカメラに澆季混濁の俗界を清くうららかに収めうれば足る。"

 夏目漱石『草枕』


漱石は心を“霊台方寸”と呼んだ。

霊台(心の置き所)は方寸、
つまり心は約3センチ四方の狭い箱に仕舞われているということだ。

くくられたり、閉じ込められたり
心もなかなか不遇である。

束ねられたこの心を解いて
風に撒き散らしたら さぞかし気持ちが良いだろう。

方寸の箱を開いて心を空へと放ってみたい。

とはいえ纏められ、仕舞われているからこそ、
心は心であり得ているのだ。

空に散ったら、それは散漫というやつであり、

また放心というやつである。

それならばこの集束を幽囚と捉えるのではなく、
贈り物として捉えてみたらどうだろう。


ロマンチックなプレゼントはいつだって、
箱に収められ、リボンでくくられているのだから。

心は、素敵なプレゼントの箱であるとも言える。




https://www.youtube.com/watch?v=RJLciB-vfT8















2018年5月2日水曜日

珈琲園芸帖



知人のお宅にお邪魔した時、
折角だからコーヒーを淹れてくれという話になった。

もちろんそれは構わないのだが、
ドリップポットが見当たらない。
湯沸かし用のヤカンしかないようだ。

念のため、注ぎ口の細いポットはないかと尋ねたら、
渡されたのはベランダにあった園芸用ジョウロであった。

悪ふざけではない。
きっと天然なのだろう。



ハス口がなくとも
ジョウロはドリップには向いていない。

分かっているのに、それでも引き受けてしまうのは、
ちょっとした遊び心というやつだ。

やりにくさは想像以上のもの。

花に水をやるのと、
コーヒーを淹れるのと、
思いやりは同じでも
勝手はまるで違うのだ。

ピチャッ、 ピチョッ、

ジョジョジョジョジョ!

おぼつかない手つきで
湯を注いでいく。

愉快な苦戦に にが笑い。

奮闘の甲斐あってか、
いや、その場の和やかな空気が呼んでくれた僥倖だろう、

淹れたコーヒーは、
吃驚するくらいに美味しかった。

こころなし草花の香りがしたようなのは、気のせいかしらん。


面白い午後。

日々の淡々のうちに現れる
ちょっと楽しく、そして風変わりな出来事。



いちおう洗ってから使ったのだけれど、
ジョウロの中にはまだ土が少し残っていたようだ。


ここだけの内証の話である。