2019年1月18日金曜日

門を叩きなさい



中学、高校とキリスト教教育の学校に通っていた。

なんら感化されることはなかったが、
多少でもキリスト教を学んでおいて良かったなと今にしては思う。


例えば 毎朝の礼拝の壇上などで、
よく引用されていた聖書の一文がある。

求めなさい、そうすれば与えられる。
探しなさい、そうすれば見つかる。
門を叩きなさい、そうすれば開かれる。

というキリストの言葉だ。

当時は、「おいおい、求めたって得られるとは限らないじゃないか」
「探しものが見つかるとは限らないし、叩いたって門が開くとは限らないぞ!」
などと捻くれたことを考えていたが、

この歳になると改めて思うこともある。


確かに、求めなければ得られないものもあるし、
探さなくては見つからないものもある。

叩かなくては開かない門もある、と。

とは言え
キリスト教文化圏にはノックの回数にも作法というものがあるらしい。

トイレなら2回、
礼儀が必要な場では4回、など。

不躾に叩けば良いというものでもない。
どうせなら行儀よく門を叩きたいものだ。

その方が開ける側も、
気持ちよくひらいてくれるというものであろう。

無論、お利口さんなばかりでは欲しいものも手には入らぬことだってある。
大木槌で門を突き破るような叩き方も時には必要かも知れない。


キリストはイチジクが食べたかったのに、
路上のイチジクの木に実がなっていなかったことに腹を立て
その木に呪いをかけたという。

そのうえで「誰でも求めるものは与えられるもんなんだ」とうそぶいたそうな。

とんでもない言い草である。

この逸話はイチジクの木に喩えて遠回しに国家を批判したとの説もあるが
もしかしたら ただ「ワガママでも良いんだよ」と
身をもって示してくれただけかも知れない。

だとしたらちょっとは頷ける。



喫茶店には様々な人が行き来する。

そんなお客様がたとの静かな語らいも店主の楽しみの1つ。

皆がそれぞれ、それぞれの望みを望み、
それぞれ何かを探したり見つけたりしながら、
めいめいのやり方で門をコツコツ叩いている。

探し方を情報交換したり、
見つけたものを報告しあったり、
門の叩き方を一緒に研究したり。

そんな交感のひと時がたまらなく面白い。

会話がなくても無言のうちに通じ合うものもある。

こんなやり取りを望んでいたからこそ
今こうして実現出来ているのかもな と思うと本当にありがたい。

キリストさんには「おっしゃる通りです」と
ヘブライ語で挨拶をしておくべきだろう。

つまりは、アーメン!である。















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