“露の世は 露の世ながら さりながら”
小林一茶
朝露や夜露のように、
すぐに消え入ってしまう儚さこそが
世の習いであると知りつつも、
やはり、つらい別れにはいちいち心を痛めてしまう。
五十を過ぎて得た子供に
次々と先立たれてしまった一茶の、
やるせのない悲しみが
この句には滲んでいる。
祖父と愛犬、
僕にとっては絶対的な愛情と、優しさのシンボルとも言える
そんな二つの命が、続いてこの世を去っていった。
“露の世は 露の世ながら さりながら”
どちらも老境にあった身、
いずれ、もうじき と理解はしていたつもりだが、
やはりそれなりに寂しい。
はかない命を、俗に 露の命とも言う。
こぼれる涙を露と例えることもある。
仙人は露を飲んで暮らすと荘子の
『逍遥遊』にはある。
「逍遥遊」を訳すれば、「ぶらぶら歩き廻る遊び」だろうが、
ここでは何にも囚われない、自由な、
のびのびとした生き方を指すそうだ。
なにも仙人になりたいわけではない、
しかし、のびのびと生きるのが仙人であるならば、
それに倣うのも悪くない。
僕も露を飲んで生きていこう。
この世の露を飲み込みながら、
何にも囚われずに生きてみたいと、そう願う。
“星の別れ ほろりと露を こぼしけり ”
正岡子規
草木の露は儚くて、小さく、そしてまた美しい。
露の世もまた然りである。
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